組紐工房 偕可園の歩み
昭和8年 偕可園初代廣岡平七は、故郷伊賀の「高麗組紐」と粋な「江戸組紐」を融合させた『組紐』制作を目指し、東京市代々木本町に『組紐処偕可園』を設立。
昭和14年 初代は「はれ」の席の帯締「家紋を組み込む高麗紐」の制作に力を注ぎ、高度な高麗の綾出しと美しい紐を組む遠縁の娘菊輪初江(2代目 児島初江)伊賀より呼び、数々の「家紋の高麗紐」を作らせ後継者として育てた。
昭和17年 戦時統制下、初代は「組紐」が販売統制枠外技術品として認可されるよう、菊輪初江に高度な技術を要する家紋「源氏車」と「揚羽の蝶」を組み込んだ高麗紐を考案制作させ通信省に提出し、その結果「組紐」は「販売統制枠外技術品」として認可された。
昭和22年 東京・甲府と戦災に遭い、廃業を余儀なくされ伊賀に戻っていた初代の元に「茅ヶ崎で高麗紐を普及させたいので、菊輪初江を指導者として招きたい。」という依頼が東京の問屋よりあり、初代は児島祥夫と結婚していた初江に家族で茅ヶ崎に移り住むように勧めた。
昭和23年 茅ヶ崎に転居し指導に当たっていた児島初江は、「組紐処偕可園」をこの地で再開しようと思い、初代に二代目の許しを得、夫と共に「組紐処偕可園」を再開した。そして初代の意思を継ぎさらに高度な技術の組紐制作に尽力をした。
昭和52年 二代目初江は、45 年の高麗組技術者としての功により、「伝統文化と染色美の祭典」で「家紋の高麗紐」の技術を披露した折、三笠宮妃殿下より「お体をお労りになり後継者の育成にお励み下さい」とお言葉をかけられ、この時初めて組紐の技術を娘達に継がせたいと思いその旨を娘達に伝えた。
昭和53年 「組紐工房偕可園」は、全国23のデパートでショップ展開することになり、これを機に長女敬子が三代目を継ぎ、染織を学んだ次女有子と共に研究を続けてきたさまざまな組を生かす染めとデザインの組紐をこのショップで発表をしていくことする。
昭和59年 三代目敬子は組紐を組むワークウェアーのデザインも手がけ、ワークウェアーを中心としたセレクトショップ “ZAZA”を茅ヶ崎に開店した。
平成2年 三代目敬子は、“ZAZA”の店舗設計を機に「ZAZA YOU CO 建築デザイン事務所」を設立したため、「組紐工房 偕可園」の四代目は次女有子が受け継いだ。
平成8年 この年、代々の意思を継ぎ組紐技術の伝承とその技術が生きるデザインと染めを研究し続けてきた四代目有子は、京都きものグランプリに、三代目考案のデザインに独自の染色をほどこした「丸台平源氏唐組孔雀柄」を出品し、近畿通産局長賞を受賞した。
平成9年 二代目初江は、この年「組紐に関った 65 年の功」を認められ、神奈川県知事より優良技術功労者として表影された。
平成10年「組紐工房偕可園」は、三代の女性組紐師(三代の華)が伝承する組紐ということで、「三華苑」とプランド名を改め全国のデパートで販売され、現在に至っている。
平成15年 四代目有子は、日本独自の美しい組紐の技術を後世に継承するため、三代目敬子と共に、後継者の育成とプロの組師を養成する「組紐制作・デザイン研究室」を開催した。
平成25年 前年亡くなった二代目初江の「組紐を主とした和装の店を持つ」という若き日の夢を実現のため、組紐・着尺・帯・陶器・漆器・和素材で作る服や小物等、「和の匠の技」を伝える、「工芸偕可園」を開店し、個展やワークショップしながら、その「技」を伝えている。